「染谷常雄先生を偲ぶ会」が開催
昨年7月14日に逝去した染谷常雄・東京大学名誉教授を偲ぶ会が5月25日、東京都目黒区のホテル雅叙園東京で、約70名の参列のもと開催された。染谷氏が在職した東京大学および武蔵工業大学(現 東京都市大学)の各研究室OBと、同氏が主宰した「ISO/TC123平軸受国内委員会」、日本機械学会RC分科会が合同で企画・開催したもので、発起人は畔津昭彦氏(東海大学)と飯山明裕氏(山梨大学)、三原雄司氏(東京都市大学)、三田修三氏(東京都市大学)、橋爪 剛氏(オイレス工業)。染谷常雄氏の令室・房子氏と、長男で東京大学副学長の隆夫氏を迎え、橋爪氏が司会進行を務めて、染谷常雄氏の業績やエピソードを語った。
初めに発起人代表の畔津氏が挨拶に立ち、「染谷先生のご葬儀後に、東大OBを代表して私と、武蔵工大OBを代表して三原雄司先生、ISO/TC123を代表して山本隆司先生が染谷先生のご自宅を訪問してご焼香させていただいた。その際に、染谷先生と深いつながりを持つ多くの方々が集まって思い出を語る『偲ぶ会』を開きたいという話になった。逝去され1年が経過したが、本日無事に開催できることとなり関係各位に厚くお礼申し上げたい。教え子にとって染谷先生は、我々の首根っこを捕まえて“あれをやれ、これをやれ”というタイプの先生ではなく、丁寧にアドバイスはするが、後は自主性に任せる方だった。我々は、自ら研究に没頭する先生の背中を見て研究を続けることができた。ご冥福を祈りたい」と挨拶した。
染谷氏は1931年、千葉県東葛飾郡鷲野谷という無医村に生まれ、時折やってくる医者の自動車から漏れたガソリンの良い香り(芳香族成分)に魅了され、東京大学工学部機械工学科に入学し内燃機関の研究を始めた。1955年に大学院で川田正秋教授の研究室に入り研究を続けたが、幼少からのドイツへの憧れをばねに交換留学生の試験を受けて合格、同年11月シュトゥットガルト工科大学に留学し、半年後にカールスルーエ工科大学に移って本格的な研究を進めドイツの工学博士号を取得した。帰国後に再度日本でも博士号を取得し1973年に東大工学部教授に就任、1991年3月に東大を定年退官した。その後、同年4月に武蔵工業大学の教授に就任し10年間、研究・教育活動を続けた。その後も研究と社会活動を継続してきたが、2023年7月に逝去した。
メインの研究課題は、カールスルーエ工科大学で始めた滑り軸受に関する研究。滑り軸受の中での軸心の軌跡をコンピュータを駆使して計算して触れ回り運動を明確にする研究を進め、ドイツで博士号を取得した。二番目が、東大に戻って始めた、軸受を2方向から加振する自作の実験装置を用いた、軸受油膜の動特性と回転軸の振動の研究。これにより東大で博士号を取得し、また日本機械学会論文賞を受賞した。三番目が、武蔵工大での三原氏との共同研究となる、エンジン主軸受の油膜圧力分布を測る「薄膜圧力センサ」の研究開発。生涯を通じて滑り軸受からトライボロジー、さらには内燃機関へと研究を進め、集大成として2020年に『滑り軸受』(養賢堂刊)を出版した。一方、燃焼に関する研究も幅広く行い、科学研究費補助金重点領域研究「燃焼機構の解明と制御に関する基礎研究」では、国内の第一線の内燃機関研究者ほぼすべてを束ねてプロジェクトを成功に導き、1993年に成果報告書『Advanced Combustion Science』(Springer社刊)を出版した。
また、研究と並行して多くの社会貢献への取り組みを続けたが、中でも生涯を通じて滑り軸受の国際標準化(ISO/TC123)に努めた。1995年に日本機械学会平軸受調査班班長としてISO規格準拠のJIS原案作成に取り組んだ後、日本をISO/TC123の発言権のあるPメンバーに昇格させて標準化を推進、複数のSCの幹事国を獲得し、さらには親委員会の幹事国となってISO/TC123国際議長に就任し国際標準化を強力に推し進めた。
染谷氏に続きISO/TC123国際議長を務めた山本隆司氏(東京農工大学名誉教授)は献杯の挨拶に立ち、「染谷先生の著書『滑り軸受』の巻頭言に見られる先人の尽力・功績に対して敬意を払う染谷先生の姿勢は、研究者としての高潔な人柄を彷彿とさせるものがある。染谷先生からさまざまな指導をいただいたJIS・ISOなどの標準規格作成活動は、先生の教育・研究分野に並ぶ、大きな活動分野。先生の国際標準活動における業績を偲ぶ際、「飲水思源」という四字熟語が最もふさわしいと思う。染谷先生の先人への敬意を払う姿勢と、標準化に従事した、まさに井戸を掘る取り組みは、軌を一にしている。一方で、染谷先生がご高齢ながら標準化活動に邁進されたことはご家族の支えがあってのことで、皆さまのご協力にも心から感謝を申し上げたい」と語った。
東大OB代表として挨拶した田中 正氏(元大同メタル工業)は、その人柄から染谷氏を偲び、ドイツの著名なDr. Pischingerの名前を間違って発音した際に小声で正確なドイツ語の発音を教えてくれたことや、声楽もたしなんだ染谷氏が名古屋で開催されたOB会で三田氏とともにシューベルト作『美しき水車小屋の娘』を合唱した思い出、さらには奥方の健康面のアドバイスに対し忠実に従うなど家族に対する究極のやさしさなどについて語った。また、研究活動だけでなく国際標準化活動に積極的に従事したことに触れ、2016年のISO/TC123ロンドン国際会議で国際議長退任の挨拶を行った後、ドイツ代表が欧州だけでなくアジアを含め全世界的な視野で推進した染谷氏の国際標準化活動への尽力と成果に対し感謝の言葉が述べられ、参加者全員によるスタンディングオベーションへと展開したエピソードなどを紹介した。
武蔵工大OB代表では東京都市大学教授で現在ISO/TC123国際議長を務める三原雄司氏が、染谷氏が東大在籍のころから構想していた薄膜センサの研究を進めるよう念仏のように言われ、中古の成膜装置を東大OBの会社から譲り受けてトラックで運んだことや、研究がうまくいかず大学を辞めるか迷っていた矢先に開発・実験が成功し慌てて博士論文を書いたこと、薄膜圧力センサをようやく開発し薄膜センサの研究で得た基礎技術を共同で特許申請したが、ホンダ、トヨタが連名で特許申請するのは初めてと言われながらも2010年に特許が成立した、といったエピソードを紹介した。染谷氏が強く希望していた薄膜センサ研究から多くの研究成果が生まれ、数々の受賞をして多くの成果を得て、今なお電気自動車や水素エンジンの開発など社会に貢献し続けていることを報告しつつ、染谷氏の指導に対し感謝の意を述べた。
ISO/TC123からは笠原又一氏(元オイレス工業)が、日本機械学会平軸受調査班でISO規格準拠のJIS原案作成に取り組む中で、ISO規格に承服できない部分があったのを機に、日本がISO/TC123のPメンバーとなり標準化を推進、六つのSCのうち三つのSCの幹事国、さらにはTC123親委員会の幹事国の認証を受けた経緯を語った。また、国内委員会を支援する日本滑り軸受標準化協議会を設立、アジア・太平洋地域8カ国に対し研修会や出張セミナーを実施、熱心な教育者としての本領を発揮してアジアでの標準化への関心を一気に押し上げたことを紹介。2018年のベルリン国際会議の席上で日本をPメンバーに後押しした元DIN軸受担当Herbert Tepper博士が「ISO/TC123が50周年を迎え我々がこうして集まることができたのは滑り軸受と標準化のエキスパートでオーソリティーの染谷先生のお陰」とその功績を讃えたエピソードを語った。
ISO/TC123からはまた、Kim Choong Hyun博士(Korea Institute of Science and Technology)が、染谷氏のお陰で韓国がISO/TC123のメンバーになれたことに感謝の意を述べつつ、2008年に学士会館で開かれた会合で染谷氏のISO/TC123関連のプロジェクトに関するガイダンスを聞いたのが初顔合わせで、以来、温かく親切に接してもらったことや、Kim氏の担うプロジェクトなどに関して染谷氏が積極的に協力・支援し成功に導いてくれたたことなどの思い出を語った。「染谷先生は、滑り軸受のプロフェッショナルとして世界の滑り軸受産業の発展に寄与し、また、その生涯をかけてISO/TC123の活動を世界的に推進し、発展させてきた」と称賛しつつ、染谷氏の冥福を祈った。
家族代表として挨拶に立った長男・染谷隆夫氏は、父親の背中を追ってきた氏が、2020年に刊行した『滑り軸受』の執筆に関して90歳で200頁を超える執筆をした集中力と根気を目の当たりにしたことや、『滑り軸受』の続巻の執筆に意欲的な構想があったこと、2021年に体調を崩して東大近くの病院に入院することになったが意識がはっきりとしていて海外出張で体調を崩さないよう心配されたことなどを追想。その生前最後の日(逝去日)に遡って従四位の叙位・瑞宝章中綬章叙勲が行われ、同時に位階が授与されたが、功労に関する多くの資料を関係各位が提供してくれたことに触れつつ、「皆さまからの父のエピソードを聞いて、皆さまのお陰で父が研究者として充実した人生を送れたものと実感している」と謝意を述べた。
最後に東大OB会の羽山定治氏(羽山技術士事務所)のハーモニカによる伴奏で、参加者全員が『仰げば尊し』を合唱し、偲ぶ会は閉会した。